ささやかな日々 ーある無職のぼやきー

無職だから見えるモノ、無職だから感じるコトをつづっていきます。

無職だって待つのはつらいよ

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今回は「待つ」という言葉の進化を見てみましょう。

 

基本は「待つ」ですよね。
時間にして数十分、長くて数時間というところ。
待ち合わせだったり、行列だったり
基本的に許せる範囲の「待ち」です。

 

さらに待つとどうなるでしょうか。
これは俗に言う「待ちくたびれる」の状態です。
数時間、あるいは半日程度かもしれません。
こうなると、待つのを強いられていたり
不本意な「待ち」なだったりするので、
かなりのストレスがかかります。

 

さらに待たざるを得ない時もありますよね。
これを「待ち焦がれる」としましょう。
数日、数週間、場合によっては数カ月以上のこともあるでしょう。
ここは時間的なボリュームだけでなく
体感的な尺度にも関わってきます。

結果や反応が気になり、気になればなるほど
待つことの心理的負担が大きくなるわけです。
恋人に逢いたくて逢えない時は、
例え1週間でも「待ち焦がれる」わけで。

 

無職期間で、この言葉の意味がようやくわかりました。


僕はもともとマイペースで、待たされることになっても
「まあ別にほかのことやればいっか」
とのんびり対応するタイプだったのですが
無職の期間にボケーっとするのは、さすがに憚られます。

独り身なら、まだ大丈夫かもしれませんね。
でも、所帯持ちで金欠の無職にとって
あらゆる局面での「待ち」は精神衛生上、好ましくありません。

この空虚な日常をのらりくらりと過ごすには、
よほどメンタル的なタフネスが必要です。

もっとも、お金の余裕や再就職の目処があれば
待つのも楽勝なんでしょうけど……。


「待つ」は、まだ理解できます。
「待ちくたびれる」も、まだ耐えられます。
しかし、「待ち焦がれる」になると
さすがに辛くて気持ちがソワソワ。

 

これが「焦り」であり「焦らし」であり
心の「焦げ」にもつながってくるのです。

 

選考の結果を待つ間は、ほんとに待ち焦がれます。
書類選考に始まり、一次(二次、三次、課題提出など)面接と最終面接
さらにその後の条件提示などなど、
どのプロセスも自分のタイミングで決まることはなく
待たざるを得ません。

 

そして待ち焦がれた挙句、あっさり落ちるのです。

 

どこに、ですって?

 

奈落ですよ、あはは。